harmony /

「貴方は、零下堂キァンさん、未成年の男の子に対し性的接触をはかり、そして彼を誘惑した。間違いありませんか?」
 私は乾いた唇を軽く開いて、息を吸った。うまく呼吸が出来ないのは、思えば十二年前からずっとだ。私は再び喪った新しい世界への道標のことを惜しみながら、救急倫理センターで優しいことばで責められている。
「ソンウくんとは……そんなんじゃありませんでした」
「貴方の|拡現《オーグ》でモニタリングされた映像を確認しますか? 貴方は彼のボディへの接触を拒まず、挙句モラルに反する発言を促してしまいました。もちろん、監督不行き届きであった我々にも多大な責任はあるかとは存じますが、貴方にも理解していただきたい損失については確りとご説明いたします。私たちが喪ったリソースは大変かけがえのないものだったのですよ」
「……かけがえのないリソースの保全のために確りと猿轡をするなんて、元も子もないな、って思いますけどね」
 何ですか、と眉を吊り上げた職員を前に口を噤んだ。ねえ、キァン。猿轡って知ってる……。今少しだけささくれている自分のことをわかっていた。職員がラベンダーの香りをつけた飲用水を一口も飲まずにいる私に、どうぞ、とグラスを勧める。私は笑顔でそれを、拒む。大丈夫です、お気遣いいただきましてありがとうございます。大人になるということは優しくなる、ということだ。易しくなる、ということ。優しさとは単純化のことだ。それを私は友人から聞いた。既に亡き友人に。

<replay>
「つまりね、キァン。優しさというのは物事の単純化というひとつの合理的判断にすぎないんだ。そうだね、たとえばレストランでハンバーグを注文しておきながら無料でステーキと交換してほしいと喚いたお客さんがいるとするでしょ。本来お店はそういったお客様都合の交換・変更はお受け致しかねますと説明をするべきなんだけど、面倒くさくてはいわかりましたと返事をする。そうすることでお客さんは一時的には静かになるだろうけれど、おそらくそれを繰り返すよね。前例が出来てしまったから。兎に角優しさっていうのは、さぼりなんだ。今の社会ではお店のスタッフの言動を優しいと評価するひともいるだろうね。本当はそんなのはちゃんとお金を払ってステーキを食べているひとへの悪意でしかないのに。でもそれを言ったら他人の得を自分の損と思うなんてこころが狭いと言われてしまう。ちゃんと真摯に向き合って説明をするのが面倒だから易しい対応をした店員。その結果が優しさになる。それだけなんだよ」
 わかる、キァン。首を傾げたミァハに私は何度も頷いていた。わかる。わかるよ、ミァハ――。
</replay>

 私は彼女のことばを覚えているだけで、何の活用もしなければ実行にも移していない。トァンは遠くへ行ってしまって、私はひとりになったけれど、それを選んだのも、拒まなかったのも私でしかない。この日本で生きていくことを決めた。大人として。ミァハが拒んだ、優しい存在になることが私のできる唯一の贖罪であると思ったのだ。私だけは彼女たちが嫌悪したつまらない世界で生きていく。
 職員がぶつくさと言うのを聞き流しながら、私はソンウくんのことを考えた。倫理セッションのボランティアでたった四ヶ月だけ関わった男の子のことを。結局彼は死んでしまって、いまこうして、私だけがセンターで問い詰められている。あの時と同じように。ただあの時は私は死のうとして、怖くてできなかった子供だったのに対し今回は彼を生かさなくてはいけない立場なのに彼の自由にさせるに留め、干渉をしなかった大人だ。追及を逃れるのは簡単ではない。
「私たちは無資格である貴方にカウンセリングを任せるにあたり、三つの制約を求めました」
「ええ、存じております」
 あの日、あの全てが収束した日、私は上から順番に制約を破っていった。二週間ぶりに会ったソンウくんは私の顔よりも胸ばかり見ていた。慾求不満なのは明白だったし、私はそれを咎めなかった。ミァハに言われればやさしい判断だったわけだ。
 日本の男たちはセックスが大好きだった、とはミァハのことば。トァンが来てからじゃなくていいの? と尋ねた私を無視して彼女が語った、性のメディア展開。ね、キァン。アダルトビデオって、知ってる……。
 彼女によれば日本の男たちはAVによって自慰行為を繰り返したり、強姦や、買春や、性風俗を利用して気持ちよくなってた。でも今は違う。私たちは年収や趣味でマッチングした結婚相手とセックスをする。痛くないか、気持ちいいかを確認しあいながら、精液を吐き出すときには愛を呟くのがオーソドックス。
 今倫理センターの付属施設に軟禁され、娯楽の一切ないソンウくんが健全な性慾を吐き出せる場所がないなら、私の胸を明け渡すことは倫理的に違反していないはずだ。こころのなかでそう言い訳をした。
「我々がお願いしたことはさほど無理難題ではなかったと思います。ひとつ、彼の発言を否定しないこと。ひとつ、彼の挑発にのらないこと」

<record>
「淋しかった?」
 もう来ねえかと思ったよ、と清々しいまでの笑顔で言いのけたソンウくんに問えば、彼は馬鹿いえと吐き捨てた。
 彼はファーストコンタクトでカウンセラーの後ろで記録係を勤めていた私を指名し、己のセッションに当たらせた。医師は私がはつ恋の女の子や母親の若いころに似ていたのではないか、と極めて普遍的な指摘をし、私に彼のカウンセリングを依頼した。
「関わる人間がいなくちゃ生きていけませんなんてのは、もう終わってるだろ」
「そうかな? 私たちは他人と関わり、コミュニティのなかでしか生きていくことは出来ないんじゃないかなって、思う時があるよ」
 扉の前で迎えてくれたソンウくんとソファに腰掛ける。時計がカウントダウンを始めるべく秒針を動かした。
「そう思わなくちゃ生きていくのが怖いんだろ? 他人と関わっても関わらなくてもいい。その事実を前に関わりたくないと思っている自分に気づきたくないだけだ」
「そんなこと、ないよ」
「いいや、お前は嘘まみれだ。優しいから、俺のことが心配だからカウンセリングをしてるわけじゃねえ。自分を優しいと思い込みたくて、優しい自分を演じることで何らかの罪滅ぼしをしたいと感じている」
 私は私を知った風な彼の発言にぴしゃりと反論した。私は、そんなつもりない。優しさに憬れたことも、罪の意識を感じることもない。それは確かな嘘だった。口のなかでてらてらと輝く唾液がほろ苦いのを知った。
「全然、違うよ」
</record>

 彼は私を挑発しながら、私に埋め込まれたWatchMeを、いつでも見つめるふりをしていた。ほんとうは彼が見たかったのは私の胸元で、実際は服がなければとどれほど思っていただろう。けれど私は知らないふりをするに留めたし、汗か何かで湿る彼の指先がWatchMeをなぞるのを甘受していた。
「確かに私は彼の発言を幾度となく否定し、訂正しました。ですがそれで彼が饒舌にものを話したのは事実です」
「病人を興奮させるカウンセラーがおりますか」
 彼はあまりにも健全で、健康だったと思う。こんな社会で、私の衣服越しの胸だけで慾情するし、自分の意見をはっきり言って、怒ったり、笑ったり出来た。
「生憎、私は無資格のボランティアなので。だからそんなカウンセラーはいないと思います」
 善かったですね、と付け加える。汚いことばを使わない職員からの柔らかな睥睨を受け止める。ミァハの死から十二年間お利巧に生きていたのに、ソンウくんに出会ってから少しだけ変わったように思う。ミァハがいればそんな台詞を、もっときれいなことばで言っただろう、というようなことを言う、彼に出会ってから。
「兎にも角にも、最後の約束だけは絶対に越えてはいけないラインでした。違いますか?」
 ミァハなら言うだろう。パスポートって知ってる……? 昔は国と国を渡るのにそんなものが必要だったんだ。今は私たちは身一つでどこへでも行けるけど、残念ながらそれを自由とは言わないよね……。
 けれど私はミァハではないので首をかしげるに留めた。何のことですか、というふりをする。
「貴方の過去を、話してはならないという制約です」
 忘れたとは言わせませんよ、と初めて職員は眉を顰めて、汚いことばを口にした。アルツハイマーじゃないんだから。

<tatistics>
「キァンはさ、自殺しようとしたことがあるんだろ」
 そうだね、と私は迷わず口にしていた。
 最後の制約。私の恥ずべき淫らな過去を彼に必要以上に話さないこと。つまり。
 ミァハというカリスマがいたこと。
 私が死のうとしたこと。
 公共のリソースであるこの身体を傷つけようとしたこと。
 親を散々悲しませ、心配させたこと。
「誰から聞いたの?」
「ライブラリに記録が残ってた。トァン、キァン、ミァハら三名の自殺未遂について」
 トァンとミァハ。私の友人。けれど私は友を裏切り、ミァハの薬のことをこの倫理センターにチクったし、それを生き残ったトァンに謝ることなく学生時代を終えた。
「お前がその話をしてくれるなら、俺も話してやってもいいぜ?」
「何を?」
「なんでもいいさ。カウンセラー連中が知りたがっていること。俺が、なんで人を殴るのか、なんで死のうとするのか、なんで一年経っても直んねえのか」
 彼は一丁前に私と取引をしようとしているらしい。私は笑みを絶やさないまま彼をソファに座らせて、自身も隣に腰を下ろす。
「じゃあ、なんで死のうとするのか教えて」
 おそらく彼の言うとおり、カウンセラーは彼について多くのことを知りたがっている。そかなかでも一番重要度が高いのはこれだろう。なんせ、死んだら元も子もないから。一年以上も改心専用の施設に閉じ込めて何故治らなかったのか、治せなかったのか、そしてその果てに尊きひとつの生命を無駄にしてしまったのか、民衆に優しい言葉で責められるから。
 ソンウくんはいいぜ、と口元を歪めて手のひらを私に向けた。ただし、前払いだ、と古い契約を引っ張ってくる。私もミァハに会わなければ知らなかった、通販で買い物するときに、先にお金を支払うシステム。支払いが確認されたら店舗は初めて商品を発送する。受け取ってから対価を支払わない人がいるなんて、信じられなかった時代のお話。 
 そして私は話した。御冷ミァハというイデオローグのこと、霧慧トァンという忠臣のこと、そしてバランサー気取りの裏切り者、零下堂キァンのことを。
「要するにお前は大人だったんだ、その頃からずっと。世界を息苦しいと感じながら、自分の苦しさを紛らわすために御冷ミァハとつるんだのではなく、自分の息苦しさはとりあえず置いておいて、ミァハが同仕様もないことをし出来さないように面倒を見ていたわけだ」
 黙って話を聞き終えたソンウくんはそんなことを言ったが、私はそれは違うこと、私も子供であり、ミァハは私の面倒など要らなかったこと、彼女にお節介を焼きたかった、私のエゴにすぎないことを繰り返し話した。けれど彼は聞く耳を持たず、なるほどな、と一人で勝手に納得してみせる。
 週に一度のカウンセリングでわかっていることは少ない。彼はPTSDの診断をもらっているが、自分ではそんなんじゃない、と突っぱねている。俺は傷ついて自暴自棄になるわけではないということばを医師は無視していた。
 部屋には優しい色合いの家具が静かに横たわっていて、玩具やボードゲームが並べてある雑多な印象は既にない。
 年々拡大していく倫理センターの規模は民衆の善意による寄付と比例している。
 そのお金で彼は食事をし、勉強をし、そして死のうとする。
「お前は罪悪感の中で生きていて、ミァハを救えなかった自分を誤魔化すようにボランティアに参加する。俺を救うことで罪を打消そうとしている。そもそもお前が無罪であることにも耳を貸さずに、頑固に自分が罪を償わなくてはならない理由を探している」
「違うよ」
「本当はお前、死にたいんじゃないか? 罪を償うことを生きる目的にすることでなんとか公共的身体と社会的意識を保とうとしているが、心のうちではミァハの後を追いたいんだろ。違うな、ミァハが好きで追いかけたいんじゃない。ミァハのことさえ面倒見てたお前だ、ただ面倒臭いんだな? 誰かに優しくすることもいや、そしてそれを嫌がる人間に共感するのもいや、だからとっとと死んで楽になりたい。それをずっと堪えながら生きている」
「違うよ、ソンウくん。全然違う。私はミァハからもらった薬を飲めなかった臆病者で、それだけじゃなくて迷いもなかったミァハやトァンのこともこっち側に繋ぎとめようとした裏切者だよ。ソンウくんが話す私は心のない強い人間みたいだけど、全然そんなんじゃないんだよ」
 嘘吐け、と彼は笑って私をじっと見つめてきた。ソンウくんの青白い睛は私にミァハを思い出させるのに十分だった。この子は頭がうんと良い。父親によって抑圧された生活を送っていなければミァハのようになっていただろうか。ただそれが彼にとって幸せなのか、ふしあわせなのか、わからない。
「最近の大人はな、子供が死のうとすればまず泣くんだよ。なんで大切な生命をそんな風に扱うの、もしかして私は気づかない間にあなたを傷つけていたのかな、こんなになるまで苦しい思いをしていたのに、気づかなくてごめんね。痛々しい傷を負ってしまって、変わってやりたい」
 現に今泪一つ流していない私の焦りをつくように、彼は尚も募った。だがお前は、と私の過去を告発する。
「多分死ねなくてショックだったと思うけど、でも今のままじゃ痛いと思うから手当させてね」
 本当は俺のことなんてこれっぽっちも興味ないんだろ、と吐き捨てた彼の目を見つめることができなかった。ミァハにそっくりで。そんなんじゃない。そう思うのに彼の言葉を何一つ否定できなかった。ミァハだけが死んだとき、トァンは生き残ったとき、私はなんとなく、まあ、そうだろうなと思った。あの子だけは私には引き止められない。まあ仕方ないよなとあきらめることが出来た、あの冷たい諦観のことを今でも覚えている。
「それに、先刻の。普通の大人からしたら俺が語る過去のお前は心のない強い人間なんかじゃない。それを強さと思うのは、お前が心がある思いやりに溢れた社会的な存在を弱さだと思っているってことだ」
 とうとう私は言葉を失ってしまった。私にとっての強さの象徴は長い髪を靡かせてきれいな声で名を呼んでくれるひと。その水色の睛に私を映してつまらない世界での呼吸の仕方を教えてくれる女性。ねえ、キァン、ほんとうにわかってる? このままじゃ私たち、どうしようもない大人になっちゃうんだよ。逃げなくていいの。反抗しなくていいの。そんなのは興味ないんだって。私が興味あるのは、私の胸がどれだけ大きくなるか。明日のケーキにイチゴは何個のるのか。来週提出の課題を誰に答え見してもらうか。それだけなんだって。それを宣言することが悪いことだとでも、思ってるの?
「……ソンウくんはさ、何で死のうとするの」
 そうして私は言葉から逃げ出した。彼は追いかけてこなかったし、私は逃げきる努力なんて出来ないのだった。いつだって。百パーセント頑張ることができない。学校の友達と仲良くするのに笑顔を頑張ってつくることも、ミァハに憬れて彼女が読んだ本を読むことも、薬を飲んで衰弱していく身体を見つめることも。いつもどうしても、息切れして立ち止まってしまうのだった。ソンウくんにだって、結局全力で向き合っていない。それを彼は見抜いていた。私のおこがましさも、エゴも。
 私はそれを十二も下の、かつての私たちと同じ年齢の男の子に見破られてすっかり狼狽えてしまって、彼のことを赦せなかった。
</statistics>

「でもそれが彼の死因には、ならないのではないでしょうか? 同じ年齢のとき、私は自殺を図り失敗した。だから自分は成功しようと自殺を試みた、なんて短絡的すぎます」
 それでも、と職員は語気を強める。泣いていた。少年の死を徹底的に嘆いていた。そして彼を追い詰めた私を心底恨んでいた。このひとはどれだけ優しいのだろう。誰が死んでも泣くのだろう。そして私が死んでも、悲しんで自分を責めるんだろう。それがわかる。
「貴方と出会わなければ彼は死ななかった」
「私と出会わなければ彼はひとを殺していた」
 すかさず切り返すと、彼女は顔を手で覆った。私はこういうとき、自分が大人に成りきれていないと自覚するとき、いつもミァハの言葉を思い出す。一言一句、違わずに。私にミァハの亡霊が乗り移る。
「でもこの社会は優しいから、殺人者でも赦してあげる。暖かい寝床を与えてあげて、美味しい食事を提供する。そうして毎日四十五分の訴求力のある映像を見て、ひとを殺しちゃだめなんだ、ひとにやさしくして、社会に貢献しなくちゃいけないんだって改心を促す。でもそんなの、ほんとはだめなんだ。法律でひとを殺したら何年償うんですよって規定をして、ひとを殺したことを赦してあげるなら、ひとは殺したっていいんだ。だってそうでしょう、ほんとうのほんとうにひとを殺してはいけないなら、そんな赦すための法律なんか準備しちゃいけない。それは罪を償えるならひとを殺してもいいですよって許可だもの。日本はずっとそうだったのに、この社会は犯罪者にさえ最低限の人権なんて与えちゃって、気持ちよく眠る自由を、世間から批判されないフィルターを準備してあげて、馬鹿じゃないの」
 なんてことを、と彼女が嗚咽を漏らすのを聞きながら、泣かせたのは私だろうか、と考える。もしかしたらミァハだろうか。彼女ならきっと、それはことばだよ、と言うだろう。私の力じゃない、ことばの力がそうさせたんだ……。私は脇に置かれた書類に目を向ける。無表情で座っている男の子の寫眞。ソンウくんはどうだったろう。父親からの暴力を受け、殺されかけ、そしてPTSDを患った可哀想な男の子。
 しかし彼は倫理センターで心的外傷のカウンセリングを受けながら、付属施設でともに寝泊りする少年少女に手をあげた。まるで父親のように。彼に人間として回生してもらおうと皆頑張ったけれど、その期待を裏切り続け、彼は子供らを傷つけ続け、私に傷つけられすぎた。女という性の塊に強く惹かれ、そして触れようとして火傷した。そして結局、自殺した。
「ソンウくんは暴力に対してかなりストイックに捉えていたように思います。殴られるのは抵抗できない人間が悪い。いやならやり返すなり、力がないならナイフを使うなりすればいいという考えを持っていました。それは社会的弱者に対する悪意的な表現ですが、同時に虐待を受けて誰にも相談できなかった自分への自虐です」
 哀しい考え方です、と目の前で溜息が漏れた。
「そうでしょうか? 家庭内暴力を受けていた彼は虐待を前に抵抗できなかった自分を恥じ、嫌悪していたと思います。そしてそれを正当化するために、つまり、自分が抵抗できないのは仕方がなかったことだと証明するために自分よりもか弱い人間に手をあげて、抵抗できない事実を味わっていた。彼らも抵抗できない、だから自分が抵抗できなかったのも当然だという正当化は哀しいことではなく、被害者感情に持ち込まないストイックさの現れともいえます」
「仮にそうだとして、ではなぜ彼は貴方とその話をしたあとで自殺を図ったのですか?」
 それは私にもわからなかった。そもそも、彼の自殺の原因を知るために私は彼女に呼ばれたのだ。無言で肩を竦めて見せれば、強い眼力で睨みつけられつつ、憶測でも構いません、と言葉ばかりは下に出る。壁でテクスチャがゆっくりと切り替わっていった。あのときのことを私は鮮明に覚えているけれど、思い出すのをどこかで恐れていた。私は十二年前、ミァハについていくのを自らの意思で拒んだ。そしていま、ミァハの面影を持つ少年を喪った。ミァハになるにはどこか愚かで、人間臭い彼。あの子に私は確かに置いていかれた、と思った。十二年前、どうしてもいけなかった向こう側に、大人に足を突っ込んだ今の私ならいける、そう思っていた。あの日差し出された薬を、私は今度こそ飲み干せただろう。けれどソンウくんは私に手を伸ばすことなく、ひとりで飛び込んでいった。先に私はミァハを裏切ったから、その話をソンウくんにしたから、彼は私を連れて行ってはくれなかったのだろう。
「……彼が私に慾情していたのは事実ですが、彼は私を抱きたいとか、犯したいと思ったわけではないと思います。つまり、私を手に入れたかったけれど合法的には不可能だった、だから死を選ぶことで今の社会制度を批判し、死んでいった、陳腐なことばですが、そう思います」
「社会への不満を訴えるために自分を傷つけるというのは、カウンセリングの記録にあった彼の性格に反すると思われますが」
「そうですか? 彼は自分の存在の大きさをわかっていたはずです。かつて私が友だちと死のうとしたとき、私たちが死ぬことは公共のリソースを喪う事態であるからこそ、私たちは自分たちの大切な身体を傷つけることで間接的に社会を傷つけようとした。ソンウくんは抱きたい私を無理やり抱くことではなく、お前を抱けないから俺は死んだんだと宣言することによって、間接的に、罪を背負うことなく、私の精神を凌辱したんです」
 おそらく、と付け加える。自信はない。ただ決してソンウくんはウェルテルとして死んだわけではない。けれど職員はもう聞いておらず、ただ呆然と泪を流していた。なぜ泣いているのですか、とは聞かなかった。そんな優しさをいま私は持ち合わせておらず、きっと彼女は絶対にわからないのだろう。息苦しいと思い自殺したい気持ちも、居場所を探して彷徨うこころも、誰かをどうしようもなく傷つけたい、自分が裁かれることなく、徹底的に辱めたいと思う暗い自分を見つけたことがないのだろう。
 ずっと幸せでいてください。こころからそう思った。何も気づかないで、何も知らないでいい。私もこれから四十八時間にわたるセラピーを受けて優しくなってくる。ソンウくんが死んだのは私のせいじゃないのよ、貴方は悪くないのだから自分を責めないでと甘やかされ続けて、とっとと家に帰るために。
 私は泣き崩れた職員――きっと慰められることを望んでいるだろう彼女をおいて部屋を出た。ソンウくんが口にしたことばは今も耳の奥にこびり付いている。口にしてからすぐに我に返り、いや、なんでもない、と訂正したことば。私は確かに、嬉しかったよ。彼は私が出会ったなかでいちばんミァハに似ていたけれど、同じくらいミァハにはなれない男の子だった。そして私はミァハのもとへはいけなかった。けれど次にトァンに逢えば私はあのときのことを謝ってしまうだろう。今回の裏切りによって過去にされた、私の過ちのこと。
 彼の遺書は今もまだ、あの部屋の机に広げてあるのだろうか。
 ずっとあそこでテクスチャに照らされながら、褪色していくのだろうか。

<testament>
 ごめんな、キァン。
</testament>

 そうして私のこころもあのときのまま、じっと染みをつくっている。天井に広がった汚い原液が静かに火葬を進めている。

inserted by FC2 system